2158087 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

NIJIの夢

NIJIの夢

021~030


NO,021 素性法師

021.素性法師

今来むと いひしばかりに 長月の
有明の月を 待ち出でつるかな

すぐに行こうと、貴方が言ってきたばかりに、九月の長い夜の、待ちもしない有明の月の出るのを待つことになってしまいましたよ。

作者は男性です。
この歌は作者が女性の立場になって詠んだもので、和歌の技法として、当時よく用いられていました。
「すぐに行こう」と言いながら、約束を破って来なかった男性への恨みの気持ちを詠んだ歌です。
夜更けに出て翌朝まで空に残っている有明の月を用いて、男の言葉を信じて、秋の夜長を朝まで待ち明かしてしまった女性の嘆きを上手く表現しています。
平安時代の恋愛(結婚)形態は、『通い婚』に象徴されるように男性が女性の元に通うものでした。
ですから、女性はただひたすらに男性の訪れを待つことしか出来なかったのです。
『平安の 男と女の 行き違い 寂しい女に 勝手な男』などという詩が詠めそうな歌ですね。


備考
ここでは秋の一夜を待ち明かしたと解釈しました。
しかし、撰者の定家は何ヶ月も恋人の訪れを待っているうちに秋となり、ついには9月の有明の月を見るまでになってしまったという、いわゆる月来説(つきごろせつ)を採っています。
この場合は、久しく訪れなくなった恋人を待ちわびて、毎夜月を眺めあかす女性の姿が浮かび上がり、よりストーリー性が濃くなると言えます。

【素性法師】そせいほうし
良岑玄利(よしみねのはるとし)のこと。(生没年共に不明)
僧正遍昭の子。
遍昭が法師であったため出家させられたと伝えられる。
歌人として活躍した。
三十六歌仙の1人。

◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇


NO,022 文屋康秀

022.文屋康秀

吹くからに 秋の草木の しをるれば
むべ山風を あらしといふらむ

吹くとすぐに秋の草木がしおれてしまうので、なるほど、それで山から吹きおろす荒い風のことを嵐いうのであろう。

この歌の面白さは、「嵐」という言葉の意味にあります。
つまり「荒い風」だから「あらし」であるということ。
そして、文字の由来。
つまり、「山風」の2文字を組み合わせあると「嵐」になるという事を発見したとする言葉の遊びにあります。
こうした言葉遊びは、当時の人々に好まれていたようです。


それでは私も一句。
『上りゆき はたまた下ると いうなれば 峠というは 山に上下』

備考
この歌の作者は、康秀ではなく、彼の子の朝康であるということが、古くから多くの研究者によって指摘されています。
そうだとすると、朝康(NO,037の作者)の歌が百人一首の中に2首入る事になってしまいます。
撰者の定家は、これが康秀の作と信じきって選んだものと考えられます。

【文屋康秀】ぶんやのやすひで
平安前期の歌人。(生没年共に不明)
縫殿助宗干の子。
清和・陽成(ようぜい)両朝に仕えた下級官吏。
「古今和歌集」の序に,言葉の巧みな歌人と評されている。
六歌仙の1人。

◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇


NO,023 大江千里

023.大江千里

月見れば 千々に物こそ 悲しけれ
わが身ひとつの 秋にはあらねど

月を見ていると、いろいろと限りなく物悲しく感じられることだ。
私一人だけに来た秋ではないのだけれど。


秋の月を詠んだ有名な歌です。
現代の私たちにもそのまま理解できる平明な、それでいて美しい言葉で詠まれています。
澄んだ月の光に照らされているような、そんな気分にさせられる歌です。
煌々と照り輝く秋の月の美しさと物寂しさを見事に表現した秀歌と言えるでしょう。


備考
この歌は、中国の詩人、白楽天の詩集である「白氏文集」の中の「燕子楼中霜月ノ夜、秋来ツテ只一人ノ為ニ長シ」という詩を元にして作られたと言われています。
「霜夜の月が冴えている今夜は、ことに昔のことが思い出される。秋の夜はただ自分ひとりだけのために、このように長いのだろうか」という内容です。

【大江千里】おおえのちさと
平安前期の歌人。(生没年共に不明)
音人(おとんど)の子。
「古今和歌集」の代表歌人。
宇多天皇の命で,「白氏文集」などの詩句に和した「句題和歌」を奉った。
中古三十六歌仙の1人。
歌集に「句題和歌(大江千里集)」

◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇


NO,024 菅家

024.菅家

このたびは 幣も取りあへず 手向山
紅葉の錦 神のまにまに

この度の旅は、あまりに急な事でしたので、幣を用意する事も出来ませんでした。
そのかわり、この手向山のように美しい紅葉を、手向けの幣として、どうぞ神の御心のままにお受けください。


「古今集」の詞書には「朱雀院の奈良におはしましける時に手向山にてよめる」と記されています。
「朱雀院」とは、宇多上皇のことで、上皇の一行はこの山の峠で道祖神に祈り、しばしの休息を取ったのでしょう。
今もあちこちに有りますが、昔は行路の主要な分岐点や峠には道祖神が祀られていました。
旅人は道祖神に旅路の安全を祈り、幣を手向けました。
ここから、道祖神が峠に祀られた山のことを『手向山』と言うようになりました。


備考
慌しい出発のために幣の用意が出来なかったと詠んでいます。
しかし、実際はそうではなく、鮮やかな紅葉の美しさを讃えるために、こうしたひねった表現をしたものと考えられます。
自分の用意した幣よりも、目の前の紅葉の方が何倍も素晴らしいお供えものになるという訳です。
なかなか洒落ていますよね。

【菅家】かんけ
菅原道真のこと。(845‐903)
平安前期の学者。
是善(これよし)の子で、宇多・醍醐天皇に仕えた。
藤原氏に対抗して文章博士から右大臣に登用された。
901年、藤原時平の讒言(ざんげん)にあい大宰権帥に左遷された。
「類聚国史」・「菅家文草」などの編著がある。
その霊は太宰府天満宮や北野天満宮に祀られ、現在も学問の神として信仰されている。

◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇


NO,025 三条右大臣

025.三条右大臣

名にし負はば 逢坂山の さねかづら
人に知られで くるよしもがな

逢坂山のさねかづらが、逢って寝るという名を持っているならば、その「さねかづら」が、たぐれば寄って来るように、人に知られずにあなたの元へ通う方法があれば良いのになぁ。

「後撰集」の詞書に「女のもとにつかはしける」と記されているので、女性に贈った歌であることが分かります。
平安時代には、季節の草木や花などを添えて歌を贈る習慣がありました。
おそらくこの歌は、「さねかづら」に添えて恋人に贈ったものでしょう。
さねかづらに託して「あなたに逢いに行きたい」という気持ちを詠んでいます。


備考
結句の「くるよしもがな」という表現について、昔から色々な説があります。
当時の男女関係は、男性が女性のもとへ通うというものでした。
その観点からみると、男性が女性に贈った歌ならば「来る」という表現はおかしいというのです。
いずれにしても、待つ女性の側に立った表現であり、「さねかづら」という言葉に導かれて少し無理な表現になったものと考えられます。

【三条右大臣】さんじょうのうだいじん
本名は藤原定方。(873-932)
内大臣高藤の子で、朝忠の父。
三条に屋敷があったので「三条右大臣」と呼ばれた。
和歌に優れ管弦の才能もあった。
和歌の普及に貢献した。

◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇


NO,026 貞信公

026.貞信公

小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば
今ひとたびの みゆき待たなむ

小倉山の峰の紅葉よ、もしおまえに心があるのならば、もう一度天皇の行幸があるはずだから、その時まで散らないで待っていて欲しいものだ。

この歌は『拾遺集』に「亭子院の大井川に御幸ありて、行幸もありぬべき所なりと仰せ給ふに、ことのよし奏せむと申して」と詞書して収められています。
紅葉の美しさを直接表現したものではありませんが、天皇の行幸まで散らずにその美しさを保っていてくれと、紅葉を擬人化して語りかける事で、その見事な景色を想像させています。


備考
撰者の定家は小倉山のふもとに別荘を持っていました。
そのような理由で、定家は小倉山の紅葉の美しさを詠んだ歌を是非入れたいと思い、この歌を選んだのではないか、とも言われています。

【貞信公】ていしんこう
藤原忠平のこと。(880‐949)
平安中期の廷臣で歌人。
基経(もとつね)の子。
摂政・関白・太政大臣。
兄の時平の跡を継いで、「延喜格式」を完成した。
日記に「貞信公記」

◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇


NO,027 中納言兼輔

027.中納言兼輔

みかの原 わきて流るる いづみ川
いつ見きとてか 恋しかるらむ

みかの原を分けて湧き出て流れるいづみ川の「いつみ」という言葉のように、いつ見たというので、こんなにも貴女が恋しく思われるのであろうか。

一度も逢った事のない女性に対する恋心を美しく詠み上げています。
いづみ川がみかの原を分けて流れる光景は、兼輔と恋しい人が隔てられている様子を巧に暗示させています。
おそらく兼輔の想いは、相手の女性に十分伝わったに違いありません。
平安時代の貴族の姫君たちは、めったに屋敷の外に出ることはありませんでした。
また、人と会う際にも御簾を隔てて話をしていたので、男性は世間の噂や評判を頼りに相手の女性を探していました。
ですから、会った事もない女性に恋をしてしまうという事が、当時はよくあった事だと言われています。


備考
この歌は、「古今和歌六帖」に「詠み人しらず」として収められていて、兼輔の歌集「兼輔集」に見られないため、彼の作品ではないとされています。
そして、「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな」という、子を思う親の気持ちを詠んだ有名な歌も残されています。

【中納言兼輔】ちゅうなごんかねすけ
左大臣藤原冬嗣の曾孫で利基の六男。(877-933)
賀茂川の近くに屋敷があったため、堤中納言とも呼ばれていた。
紀貫之との親交があり当時の歌壇の中心的な存在でした。
三十六歌仙の1人。
歌集に「兼輔集」

◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇


NO,28 源宗千朝臣

028.源宗于朝臣

山里は 冬ぞ寂しさ まさりける
人目も草も かれぬと思へば

山里はいつも寂しいものだが、冬はいっそう寂しさが勝って感じられることだ。
人の訪れもなくなり、草も枯れてしまうと思うので。


都の賑やかさに比べ、山里はいつの季節も寂しいものです。
それでも春から秋にかけては、桜、青葉、紅葉といった季節折々の自然を求めて都の人々が訪ねてくる事もあります。
しかし、冬ともなると、訪ねる人の絶え、草花も枯れてしまって心を慰めてくれるものは何一つなくなってしまいます。
この歌は、そんな冬のやな里の寂しさを詠んだものです。
誰も自分を訪ねて来なくなった時の寂しさを想像した事がありますか?
死ぬ事よりも怖いような気がします。


備考
作者の源宗千は、臣籍に下った後、昇進が思うようにいかず、恵まれない晩年を過ごしたと言われています。
この歌には、冬の山里の寂しさでだけではなく、自分の侘びしい境遇を嘆く気持ちが含まれているのかも知れません。

【源宗千朝臣】みなもとのむねゆきあそん
平安前期の歌人。(?‐939)
光孝天皇の孫で、是忠親王の子。
源姓を賜り、臣籍に下った。
歌人としては優れていて、三十六歌仙の1人。
余情ある歌風で「古今和歌集」などの勅撰(ちょくせん)集に入集。
家集に「宗于朝臣集」

◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇


NO,029 凡河内躬恒

029.凡河内躬恒

心あてに 折らばや折らむ 初霜の
置きまどはせる 白菊の花

あて推量で、もし折るならば折ってみようか。
まっ白な初霜が一面に降りて、どれが霜だか花だか分からなくなっている白菊の花を。


この歌は『古今集』に「白菊の花をよめる」と詞書して収められています。
白菊と霜とを見まがうという発想は、漢詩から来ていると言われています。
いくら霜がまっ白に降りても、花と霜の見分けがつかなくなるということは、現実には考えられません。
しかし当時は、景色を直接的に詠むのではなく、この歌のようにひねった表現を用いて詠むのが好まれていたようです。


備考
誇張した表現になっていますが、それが嫌味にならず、霜の朝のキリッとした空気の中に咲き匂う白菊の花が目に浮かぶような美しい表現になっています。
作者の才能と言えるでしょう。
この歌は、貫之をはじめ一流歌人たちに高く評価されていました。

【凡河内躬恒】おおしこうちのみつね
平安前期の歌人。(生没年共に不明)
「古今和歌集」の撰者の1人。
紀貫之と並んで、当時の歌壇の双璧と言われる。
三十六歌仙の1人。
才気に富み、叙景歌に長じた。
家集に「躬恒集」

◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇


NO,030 壬生忠岑

030.壬生忠岑

有明の つれなく見えし 別れより
暁ばかり 憂きものはなし

貴女とお別れした時、有明の月が無情にも残っていましたが、その月のそっけないように、貴女が冷たく感じられたその別れ以来、暁ほどつらく思われるものはないようになりました。

この歌には「つれなく見えたのは一体何か?」という点をめぐって何点かの説があります。
主なものは、月も恋人も両方つれなく見えたとする説。
もう一つは、つれなく見えたのは恋人ではなく月だったとする説です。
ただでさえ冷たく見える有明の月に、恋人の無常な態度が重なって、その別れ以来、暁が辛く悲しいものになってしまった、と相手の女性を恨む気持ちが込められています。


備考
古今集には、「逢はずして帰る恋(恋人の元を訪れたが、逢ってもらえずに虚しく帰ってくること)」の歌郡に収められていることから、現在では「月も恋人も両方つれなく見えたとする説」が有力視されている。
しかし、撰者の定家は、後朝の別れに際しての歌として、「つれなく見えたのは恋人ではなく月だったとする説」を取っています。
また、定家は、このくらいの歌を一首詠む事が出来れば「この世の思ひ出に侍るべし」と絶賛しています。

【壬生忠岑】みぶのただみね
平安中期の歌人で歌学者。(生没年共に不明)
壬生忠見の父。三十六歌仙の1人。
「古今和歌集」の撰者の1人。
紀貫之に師事したというが、澄明な叙景歌などに見られる資質は、むしろに貫之に勝ると言われている。
官位は低かったが、歌人として優れ、「寛平御時后宮歌合」などに出詠していました。
歌は「古今和歌集」以下の勅撰集に入集。
家集に「忠岑集」、歌論書に「和歌体十種(忠岑十体)」

◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇

031~040に進みます。


 ページトップへ

 ホームへ



© Rakuten Group, Inc.